akane
2019/08/09
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2019/08/09
ジミー君が大学を卒業したとき、日本はまだバブルに浮かれていた。彼もほかの学生と同じように就職活動をし、電機部品を扱う中堅商社に入社した。
就職を前に中国旅行に出た。北京、西安……。中国の列車の硬座に24時間揺られた。当時、中国の駅では、硬座の切符を一枚買うことすら大変だった。ガイドブックに、「大変だ」と書いてあることを、ひとつクリアーする。その達成感がたまらなく面白かった。
しかし彼が手にしていたのは、1回限りのパスポートだった。就職したら海外旅行などできないと思っていた。最初で最後の旅のつもりだったのだ。
それは、新卒の新入社員が誰しも抱く感覚なのかもしれない。ジミー君が配属されたのは営業部門だった。
与えられた仕事はあまりに狭い世界に映った。電機部品を売り歩いていく毎日が、彼にはそう見えたのだ。売り上げの数字がすべてだった。
ジミー君は会社のなかで、「やってやろうじゃないか」という意気込みがどうしても湧いてこなかったといった。
上司とはウマが合わなかった。ヒステリックなところがある人だったようで、部内はいつもぎすぎすしていたという。先輩はそのなかでプレッシャーをかける。ときに社内ではいがみ合いが起きる。
「細かなことで、どうしていがみ合わなきゃいけないんだろう」
うまく立ちまわっていくタイプと、ある時点で立ち止まってしまうタイプ……サラリーマンにはふたつのタイプがいる。人それぞれ、組織のなかで悩み、それなりの落としどころをみつけていくのだろう。しかしジミー君の話を聞くと、いともあっさり、入社した年の暮れに会社を辞めてしまっている。
「会社で嫌なことがあると、つい中国の旅を思い出していましたね。ああいう達成感のある旅への思いが募っちゃったんですよ」
しかし彼は、いまでいうフリーターとかニートといった道を選んだわけではなかった。一応、次の勤め先をみつけた上での退社だった。紹介された仕事は、自分が卒業した大学の図書館の臨時職員だった。
図書館を辞めたのが1995年の12月。そして翌年、ジミー君はタイに8カ月滞在する。外こもり生活がはじまった。
彼が泊まっていたのが、カオサンのテラスゲストハウスという日本人宿だった。
日本人宿といっても、それぞれに特徴があった。年齢層が若い宿、インド帰りが多い宿など、それはさまざまだった。そのなかでテラスゲストハウスは、20代後半から30代の日本人が集まってきていたように思う。
ジミー君以外の日本人とは親しくはなかったが、この宿の共有スペースである物干し場で何人かとありきたりの話はした。その印象でいえば、バンコクははじめてといったタイプではなく、それぞれの旅のスタイルをもっていた。
そのなかのひとりが、ゲームを見せてくれた。それは樽型の筒に棒を順に刺し、ある穴に刺してしまうと樽が壊れてその人が負けというものだった。
「これ、タイ人とやると盛りあがると思いまして。東京で買ってもってきたんですよ」
そんな会話が、この宿では普通に交わされていた。
そんなテラスゲストハウスを、ジミー君は梁山泊といった。
ジミー君は、カオサンの暮らしのいいところは「人と出会える街」といった。
外こもり組は、日本にいたとき、ひきこもり傾向にあった人が多いが、彼らが口をそろえるのは、「日本にいると人と出会えない」ということだった。
30歳近くにもなり、アルバイトがないときなど家にいたりすると、周りからはひきこもりじゃないといわれ、つい家から出なくなってしまうのだという。大学や高校の同級生たちは皆、働いているから忙しくて相手にもしてくれない。
ところがカオサンに来ると、時間だけは余るほどある人が多い。そしてその多くが、日本という社会に生きづらさを感じている若者なのだから、話が合うはずだった。
日本から眺めれば、それは同病相憐れむ姿にも映るのかもしれないが、彼らにしたらそこはまさに桃源郷なのかもしれなかった。
以上、下川裕治氏の近刊『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の杜文庫)から再構成しました。(つづきは本書で)
下川裕治
1954年長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、アジアや沖縄をメインフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。
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