BW_machida
2020/06/25
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2020/06/25
その中年の裁判官は、背が高く、白髪頭で、明らかにブルックリン区で生まれ育ったとわかる訛りで話した。ここでは彼をソロモンと呼ぼう。ソロモンは10年以上前からニューヨーク州の裁判官として働いてきた。彼は横柄でも威圧的でもなかった。とても親切で、物腰は驚くほど穏やかだった。
毎週木曜日は、罪状認否手続きで忙しくなる日だ。法廷に来る被告人はみな、なんらかの犯罪の疑いでここ24時間以内に逮捕された人々だった。留置場で眠れぬ一夜を過ごした彼らは、手錠をかけられてひとりずつ順番に法廷に連れてこられた。被告人たちは、ソロモンのちょうど左側にある仕切り板のうしろの低い長椅子に坐る。それぞれの事件の審議が始まると、被告人の前科が記されたファイルが助手からソロモンに手渡される。彼は資料をめくり、必要な情報を頭に入れていく。被告人はソロモンのまっすぐ前に立ち、その横には弁護士、反対側に地方検事がいる。弁護士と検事が話し合いを始めると、ソロモンは耳を傾ける。それから彼は、被告人の保釈の是非を判断し、必要な場合には保釈金の額を決める。眼のまえにいる赤の他人には、自由が与えられるべきだろうか?
彼に課せられたのは、見ず知らずの他人の性格を評価するという仕事だった。刑事司法制度のなかでは、その種のむずかしい判断を正しく下すためには、裁判官と被告人がまずは面と向かって会うべきだと定められている。
たとえば午後遅くにソロモンは、薄い髪を短く刈った年配の男性と対峙することになるかもしれない。ジーンズとキューバ・シャツに身を包んだ彼は、スペイン語しか話すことができない。男性は、恋人の6歳の孫への“虐待事件“にかかわったとして逮捕された。6歳の男の子は何が起きたかすぐに父親に話したという。地方検事は、保釈金を10万ドルに設定するべきだと主張した。男性に、そのような額を捻出できる財産などあるはずがなかった。もしソロモンが地方検事の提案に同意したら、キューバ・シャツの男性は刑務所に直行することになる。
一方、被告人の男性はすべてを否認した。彼には2件の前科があったものの、どちらも何年もまえの軽い罪だった。男性は機械工として働いていたが、刑務所行きになれば仕事を失うことになる。彼には元妻と15歳の息子がおり、現在の仕事の収入でふたりを養っていた。ソロモンとしては、父親の給料に頼って生活する15歳の息子について思いを馳せずにはいられなかった。さらに、6歳児の証言を鵜呑みにはできないとわかっていた。すべてが大きな誤解なのか、不吉な犯罪のパターンの一部なのか、ソロモンに判断できるはずがなかった。キューバ・シャツの男性を保釈するべきか、裁判まで身柄を拘束するべきかという決定は、恐ろしくむずかしいものだった。正しい判断を下すためにソロモンは、同じ状況に置かれた誰もがすることをした。彼は男性の眼をまっすぐ見やり、相手の正体を見きわめようとした。それが助けになったのか?
この問いへの答えを探るために、ハーバード大学の経済学者、3人のコンピューター科学者、シカゴ大学の保釈の専門家らが行なった研究について見てみよう。説明を簡単にしたいので、経済学者のセンディール・ムライナサンの名前を拝借し、この研究グループをムライナサンと呼ぶことにする。ムライナサンはニューヨーク市を調査の場に設定し、2008から2013年のあいだに市で行なわれた罪状認否手続きの審問に参加した55万4689人の被告人の記録を集めた。ニューヨーク市の裁判官たちは、そのうち40万人強を釈放した。
ムライナサンは次に人工知能(AI)システムを構築し、罪状認否手続きのなかで検察官が裁判官に与えた情報を入力した(被告人の年齢と前科)。そしてAIにたいし、55万4689件の事件の被告人のうち釈放するべき40万人のリストを独自に作成するよう指示した。まさに、人間と機械の知恵比べだった。どちらが、より優れた決定を下すことができたのか? 保釈中の再犯率がより低く、裁判日の出頭率がより高かったのは、どちらのリストの犯罪者だったのか? 結果には大きな差があった。コンピューターが弾きだしたリストの40万人は、ニューヨーク市の裁判官によって釈放された40万人よりも、裁判を待つあいだの犯罪率が25パーセントも低かった。25パーセント! この知恵比べでは、機械が人間に圧勝した。
ムライナサンの機械がどれほど優れているか、その一例を挙げたい。コンピューターでは、全被告人のうち1パーセントが「高リスク」と判定された。つまり、裁判前に保釈するべきではないとコンピューターが考えた人々だ。機械の計算では、高リスク集団のゆうに半数以上の人々が、釈放された場合には別の罪を犯すと予想されていた。ところが、人間の裁判官が同じ悪者たちのグループを見ても、危険人物だと特定されることはほとんどなかった。実際、裁判官たちはそのうち48.5パーセントを保釈した! ムライナサンの報告書のとりわけ衝撃的な一節のなかでは、「アルゴリズムによって高リスクと判断された被告人の多くは、人間の裁判官によってあたかも低リスクのように扱われる」と結論づけられていた。「この調査によって、裁判官は身柄拘束のための高い基準を設定しているのではなく、たんにまちがったランクづけによって被告人の保釈の是非を決めていることがわかる……彼らが保釈すべきかどうかを最後まで悩んだ被告人たちは、コンピューターによって予測されたリスク分布のあらゆるところに存在する人々だった」。言い換えれば、裁判官による保釈の決定はどこまでもでたらめだということだ。
この結果を不可解だと感じる人も多いはずだ。保釈決定を下すとき、裁判官は3つの情報を参照することができる。まず、被告人の情報――年齢、前科、前回の仮釈放時の経緯、住所、仕事。次に、地方検事と被告人の弁護士の証言。法廷では、このふたりからあらゆる情報が裁判官に伝えられる。そして、裁判官たちは“自らの眼“をとおして生の証拠を手に入れることができる。眼のまえのこの男について、どう感じるか?
一方、ムライナサンのコンピューターは、被告人を実際に見ることも、法廷での証言を聞くこともできない。参考にできるのは、被告人の年齢と前科記録だけ。裁判官が利用できる情報の一部しか与えられなかったにもかかわらず、保釈決定についてコンピューターははるかに優れた判断を下すことができた。
私の2冊目の著書『第1感――「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』(Blink)のなかで、オーケストラのためのオーディションでは、衝立のうしろに演奏者を隠したほうがよりよい結果が生まれることを説明した。つまり審査員から情報を奪うことが、より優れた判断へとつながった。でもそれは、誰かが演奏する姿を見ることから得られる情報が、実際の技術とはほぼ無関係だったからだ。バイオリン奏者の力量を判断するとき、その人物が小柄なのか大柄なのか、ハンサムなのか不細工なのか、白人なのか黒人なのかを知ることはなんの役にも立たない。むしろそのような情報は偏見を生み、判断をよりむずかしくするだけだ。
しかし保釈の決定についていえば、裁判官に与えられる追加の視覚情報はおおいに役立つかのように思える。ソロモンの法廷に以前、バスケットボール用のハーフパンツと灰色のTシャツ姿の若い男性がやってきたことがあった。誰かと喧嘩し、相手から盗んだクレジットカードで車を購入した疑いで逮捕された人物だった。保釈申請の話し合いのなかで地方検事は、男性が過去二回の逮捕後、決められた日に裁判所に出廷しなかったと指摘した。それは重大な危険信号だった。とはいえ、すべての“不出廷“が同じわけではない。被告人にまちがった日付が伝えられていたら? 仕事を休んでクビになるより、出廷しないほうがいいと判断した場合は? 子どもが病気にかかったら? それこそ、被告人の弁護士が裁判官に伝えたことだった――私のクライアントには出頭できなかった理由がちゃんとあります。コンピューターは被告人の個々の事情を知らなかったが、裁判官は知っていた。そのような情報が役立たないことなどありえるだろうか?
同じように、保釈の是非を判断するうえでソロモンがもっとも警戒しているのは、暴力事件の容疑者の精神疾患だという。その種の事件は裁判官にとっていちばんやっかいな悪夢だった。保釈を認められた被告人が薬の服用をやめ、またひどい罪を犯すというケースが多々あるからだ。「仮釈放中の被告人が警察官を殺すことだってあります」とソロモンは言った。
その種の状況に陥ることを予測する手がかりは、被告人のファイルのなかに隠れている――病歴、入院歴、責任能力がないと判断された記録。しかし、残りの手がかりはその場でしかわからない。「法廷では、情緒障害のある人を意味するEDPなどの単語がたびたび使われます」とソロモンは言う。
精神疾患についての情報は、被告人を逮捕した警察署の職員から裁判所に伝えられることもあります。罪状認否手続きにさきがけて精神科救急で検査を受け、医者が診断書を発行したケースです……ほかにも、情報が地方検事のファイルに記載されており、検事が被告人に直接質問する場合もあります……裁判官は、それらの事実を考慮したうえで判断を下さなくてはいけません。
精神疾患が疑われる被告人が現れると、ソロモンは相手を慎重にじっと見つめる。
きまって彼らは生気のない眼つきをしていて、相手と眼を合わせることができません。子どものように、前頭葉がまだ発達していないせいではありません。私が話しているのは、薬の服用を中止している大人の眼のことです……
ムライナサンの機械は、検察官がEDPについて話すのを耳にすることはできないし、被告人の生気のない眼つきを見ることもできない。当然ながらこの事実は、ソロモンや同僚の裁判官にとって有利にはたらくはずだ。しかしどういうわけか、結果は逆。
よく知らない人に会うと、実際に会っていない場合よりもその人物についてうまく理解できなくなることがあるのはなぜか?
(次回へ続く)
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