ryomiyagi
2020/07/06
ryomiyagi
2020/07/06
※本稿は、岩田健太郎『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
「それは、事実なのか。それとも、君が『そう思っている』ことなのか」
これは、ぼくがアメリカで内科研修医になった年に、一つ上の先輩医師から言われたことだ。パトリックという極めて優秀で、かつ厳しい先輩だった。
集中治療室(ICU)を担当していたときだ。朝のカンファレンスで、すべての患者の前を通りながらチームで議論する。細かい内容は忘れたが、患者の対応策についてぼくが「こうなんじゃないか」と意見したとき、こう言われたのだ。
事実なのか、事実だと思っていることなのか。
事実なのか、お前の思い込み、思いつき、願望、あるいは欲望なのか。
非常に重たい言葉である。この日以来、ぼくは患者ケアのときに必ず、この言葉を自らに反芻するようになった。
患者の命に関わる「医療」。我々の判断や意思決定は、常に人命に深く関わっている。安易な判断ミスは許されない。
しかし、人間である以上、医者であっても間違いは犯す。
大切なのは、間違えないことではない。仮に間違えたにしても、「よりましに」間違えること。間違えたとしても、すぐにミスに気づいて方向修正できること。そのことがもっとも大切なのである。
今は医学・医療の話をしたが、日本のいじめ対策が、法整備など様々な対策を施しているにもかかわらず、抜本的な改善を見ていないのはなぜなのかと考えると、この「事実よりも欲望」の精神が背後にベッタリ存在していることが分かる。最近の言い方で言えば、「ファクトよりもフェイク」だ。
文科省は、いじめの実態を知ろうとしない。それは彼らにとって不都合な真実だからだ。
教員も教育委員会も知りたくない。不都合な真実よりも、自分たちに都合のよい、自分たちの欲望──教育現場ではいじめは起きていないし、誰もいじめを原因に自殺したりしない──を優先させる。事実から目を背けている限り、いじめと自殺問題は解決しない。
たとえ自分にとって極めて不都合な事実であっても、事実は事実だ。欲望よりも優先させるべきは事実なのである。
子宮頸がんを予防するHPVワクチンの「積極的勧奨」を厚生労働省が行なわないのも、「ワクチンが病気を予防する」という「事実」よりも、「みんなに批判されたくない。メディアや声の大きな人たちにガヤガヤ言われたくない」という「欲望」が優先されているからだ。政治家についても同様だ。
たとえ医師免許を持っていても、「考えず」「判断せず」、とりあえず風邪に抗生物質を出しとけ、という医者はプロとしては失格である。事実よりも欲望を優先させる、プロフェッショナリズムを欠いた医者だからだ。
同様に、HPVワクチンを積極的に推奨せずに、現状のままで子宮頸がんの死者が発生するのを知らん顔して放置しているのも、プロの政治家、官僚としては失格である。
彼らは「考え」「判断する」ことを放棄し、周りの空気に合わせ、忖度し、自らの処遇が不利になるのを恐れ、その願望、欲望を事実に優先させて小狡い判断をしてしまう。高級官僚というよりは小役人、政治家というよりは政治屋だ。
教育現場にとって、「いじめの認知」は、失敗ではない。少なくとも最悪の失敗ではない。よりましな失敗だ。いじめがあるのに、欲望によって目を曇らせて「なかったことにする」ことが、もっとひどい失敗である。
官僚にしても教員にしても、そして多くの医者も(残念ながら)そうなのだが、「失敗してはいけない」という呪いにかけられている。「私、失敗しません」などと言う医者はドラマの中の幻想に過ぎず、もしそんな医者がいたとしたら、ひどいヤブ医者なだけなのだ。失敗の存在すら認知できない、ヤブ医者。
まともな医者は失敗を認め、失敗を認知し、失敗の可能性を考慮し、そして「よりマシな失敗」に収まるように「判断」する。
現実の問題を直視せず、失敗の可能性を最初から捨象し、成功神話にどっぷり浸かって欲望のままで生きている教育現場、教育委員会、そして官僚と議員たちに猛省を促したいのはそのためだ。
ぼくはあなたたちの失敗を責めはしないが、失敗が存在しないかのように振る舞って現実世界を矮小化させようという小狡い態度は断固として容認しないのである。
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