2019/01/07
でんすけのかいぬし イラストレーター
『死刑囚最後の日』光文社古典新訳文庫
ユゴー/小倉孝誠 訳
この本は、死刑制度廃止を訴えたユゴーが、死刑囚の死刑執行のその時までを描いた作品で、冒頭の序文にあるように、フィクションかノンフィクションかどちらの解釈を選ぶかは読者の自由である。
死刑囚である主人公の名前や職業、罪状などは明かされないまま話は進んでゆく。
最終的に彼を待っているのは痛みを感じず死ねるという“人道的”な処刑、ギロチン刑。
当然死刑囚の心は穏やかではいられない。『刑の執行は今日だ』なんて言われたらなおさらだ。
取り乱したり、強がってみたり、死刑囚の精神の不安定さは読んでいて心がヒリヒリする。
しかし、あまりにもこの死刑囚の身の上が明かされないので、彼の『死刑は嫌だ!』という気持ちばかり書いてあるけれど、この人は本当に自分の罪に向き合っているのか?とか死刑が妥当だと判断できないなぁ……と、ここまで考えてふと思った。
“いやいや、罪の重さが死に値するのかとか、そういうことではなく、法による処刑とはいえ殺人をしていいのか”ということを書いているわけであって、死刑が妥当か?なんて話はしていないのだ。
気付かないうちに恐ろしいことを考えていた。
自分の感覚も試されているような話だ。
小学生のときに議題が“死刑は賛成か反対か”というディベートの授業があった。
小学生のディベートなので、最初はどちらかに属し、みんなの意見を聞いて気が変わったら途中でどちらに移動してもヨシというものだった。
小学生の時の私は『例えば両親が殺されて、犯人だけ生きていたら敵討ちに行っちゃうかもなぁ』と思い賛成派の席にいた。
死刑反対派の男子からは『悪人はもう一度悪いことできないように腕とか切って釈放すればいい!』と、どこの残酷物語だよという意見があり、賛成派の女子からは『死刑があればそこまで悪いことしないんじゃないか』という意見も出て、結構議論は白熱したが、結局チャイムが鳴ってお開きになってしまったので小学生なりの結論は出なかった。
最後まで読んだ人はわかるのだけど、ユゴーは読者が気になるシーンを書いていない。
ギロチンを前にした彼がどうなったのかはぜひ読んで確かめてほしい。
さて、ギロチンとはどういうものなのか、絵とか写真でしか見たことがなかった。
そんなわけで先日、怖いもの見たさに国内で唯一ギロチンが見られるという明治大学駿河台キャンパス内の明治大学博物館に行ってきた。
日本の拷問器具を見ながら進んでいくと……ありました、ギロチン。
ちょっと背が低めだけど威圧感満載だった。
ちなみにギロチンのお隣さんは「ニュルンベルクの鉄の処女」という怖さが倍増の配置。
ギロチンはレプリカだから少し本物と違うかもしれないけれど、思っていたより刃が分厚く、切れ味が良いというよりは重さと落ちてくる勢いでぶった斬るという印象。
あの分厚い刃がうつぶせになっている自分めがけて落ちてくると思うとゾッとする。
日本刀で人を斬ると刃こぼれするなんて話を思い出すと『刃こぼれしたらさすがに替えるよね?』と心配になってしまった。
肉体的苦痛を伴わない(と思われる)“人道的”な処刑法とはいえ、死刑執行時間を伝えられ、あと数時間で首が飛ぶだなんて、精神の痛みは想像もできないほどだろう。
ひとつ、この本を読んで疑問に思ったことがあった。
この話には死刑囚の身の上どころか、被害者のことも全く書いてないのだ。
重大な罪を犯しても加害者が死刑にならず生き続けているとしたら、肝心の“被害者”の気持ちはどうなるのだろう?
ユゴーは、もし自分の一番大事な人が残酷な殺され方をしても、加害者を許すのだろうか?
もしかしたら、そこはユゴーでも答えが出なかったのかもしれない。
『死刑囚最後の日』光文社古典新訳文庫
ユゴー/小倉孝誠 訳