「充実した中堅層」と「イキのいい若手」【第3回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

落語界が低迷した1990年代、大きな飛躍を見せたのが立川志の輔、立川志らくの2人だ。

 

1990年に真打昇進、マスコミでも売れた志の輔は1996年に「志の輔らくご 両耳のやけど」と題した落語CD全10枚を発売し、同年末には「志の輔らくご in PARCO」をスタート。1994年から赤坂の草月ホールで始めた月例独演会「志の輔らくごのばあい」は2000年に新宿の安田生命ホール(後の明治安田生命ホール)に場所を移して「志の輔らくご 20世紀は20日」となり、翌年以降の「志の輔らくご 21世紀は21日」に繋がっていく。

 

1995年に真打昇進した志らくはシネマ落語で注目され、独演会「志らくのピン」の名を冠したCDを3枚(1995年、1997年、1998年)リリース。2000年9月には初の著書『全身落語家読本』を出版する。

 

マルチに活躍する談志や小朝以外で1990年代に落語家として話題になっていたのは、(小さん、志ん朝、圓楽、小三治といったビッグネームを別格とすると)この2人と春風亭昇太くらい。1997年に真打昇進した立川談春が将来の落語界を背負って立つべき逸材であることは当時から明らかだったが、人気という面で彼が飛躍するのは21世紀に入ってからのことだ。

 

では、20世紀末の「それ以外」はどういう状況だったか。
寄席の世界で鎬を削っていたのが柳家さん喬・柳家権太楼の2人。前者は1981年、後者は1982年に真打昇進した中堅世代で、今に続く上野鈴本演芸場での特別興行「さん喬・権太楼 特選集」は1999年に始まっている。同世代では五街道雲助、春風亭一朝、古今亭志ん五らが寄席通に人気だった。

 

その少し下の世代では、1985年に真打昇進している古今亭志ん輔が15年間レギュラーを務めたNHKの『おかあさんといっしょ』を1999年4月に卒業、寄席での存在感を高め始める。同じく1985年昇進組の春風亭正朝、入船亭扇遊らも寄席の重要な戦力となっていた。その下には談志をして「あいつは天下を取る」と言わしめた「昭和最後の真打」古今亭右朝(1988年昇進)がいたが、21世紀に入ろうとする頃に病に倒れ、2001年4月に52歳の若さで亡くなった。いまだに「右朝が生きていれば……」という声があるほど、彼の死は落語界にとって痛かった。

 

めきめきと頭角を現わしてきた若手真打が柳家喜多八(1993年昇進)、柳亭市馬(1993年昇進)、柳家花緑(1994年昇進)ら。その下の橘家圓太郎(1997年昇進)、三遊亭歌武蔵(1998年昇進)らも後を追う。

 

今まで挙げたのはすべて落語協会所属の落語家だが、落語芸術協会には突出した面白さの春風亭鯉昇(1990年真打昇進/現・瀧川鯉昇/)、江戸落語の伝統を体現する若手の桂平治(1999年真打昇進/現・11代目桂文治)らがおり、評論家筋に注目されていた。

 

五代目圓楽率いる圓楽党は鳳楽(1979年真打昇進)・圓橘(1980年真打昇進)・好楽(林家九蔵で1981年真打昇進/1983年圓楽一門に移籍)・楽太郎(1981年真打昇進/現・六代目圓楽)ら幹部が組織を固める「四天王」体制で独自の活動をしていたが、次世代のエース不在が立川流と対照的だった。

 

今まで見てきたのは真打だが、実はこの時期、次代を担う有望な二ツ目たちがすでに注目を集め始めていた。林家たい平、柳家喬太郎、三遊亭新潟(現・白鳥)、橘家文吾(現・文蔵)、柳家三太楼(現・三遊亭遊雀)、横目家助平(現・柳家一琴)、林家彦いち、入船亭扇辰、古今亭菊之丞らである。

 

20世紀最後の年である2000年の3月に林家たい平と柳家喬太郎の2人が抜擢で真打昇進。そして21世紀最初の年である2001年の9月、新潟改め白鳥、文吾改め文左衛門、三太楼、横目家助平改め柳家一琴らが真打昇進した。翌2002年3月に彦いちと扇辰が真打となり、2003年9月には菊之丞が単独真打昇進で話題を呼ぶ。さらに言えば、2005年9月に桃月庵白酒として真打昇進する五街道喜助、2006年3月に真打昇進する柳家三三の2人は、もっと前の2004年頃に抜擢で昇進していてもおかしくないと思われていたのである。

 

先に述べた「機は熟していた」というのは、そういうことだ。

 

「志ん朝の死」で世間の目が落語という芸能に向いたとき、そこにはビッグネームや立川流以外にも「充実した中堅層」と「イキのいい若手」がいた。世間が知らなかっただけで、この時期の落語界には豊富な人材が揃っていたのだ。

 

そのことを、小朝も『苦悩する落語』の中で指摘していた。「これからはユニットの時代だ」と主張する項では、「昇太、志の輔、志らく、談春、花緑、新潟、たい平、喬太郎」他の名を挙げて「お客様を呼べる若手が、こんなにいるじゃないですか」と言っている。それに続けて「これを放っておくのはもったいないと考えるのが普通でしょう」と言っているのは、だから所属団体の壁を越えて興行を打てばいいのに、との意だ。

 

ちなみに志らくの『全身落語家読本』にも面白い若手落語家として「談春、花緑、たい平、喬太郎、新潟、三太楼、助平、文吾」といった名前が列挙されている。

 

小朝、志らくの著書にやや遅れて目覚ましく動き出したのが、そこに名の挙がった一人、柳家花緑だ。

 

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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