2021/03/23
三砂慶明 「読書室」主宰
『ここじゃない世界に行きたかった』文芸春秋
塩谷舞/著
いまの自分は、理想の自分ではない。
いま居る場所は、自分がいるべき場所ではない。
それぞれの家庭で、学校で、職場で、そうした想いがよぎったことがない人は、幸福なのだろうか。
目の前の現実に戸惑い、壁をのりこえられず、壁の前でため息をつき、しかし、気を取り直して壁にとりついて這い上がり、何度も失敗しながら、乗り越えた景色は、その人にしか見えない。逆説的かもしれないが、挑戦する人しか、失敗はできない。
だからこそ、今、たとえようもなく不安で、足下が不確かな中で日々もがいている人に、この本を読んでほしい。
『ここじゃない世界に行きたかった』。著者の名前は、塩谷舞。
他者からの依頼に応えて、投稿した文章が、爆速で数万「いいね」を獲得してきたバズ職人が、その暖簾をおろして書き綴った文章。
仕事の悩み、政治について、アートの話、恋愛話から、女性が社会で働くということがいかなる課題を抱えているのか。静かに、淡々と、しかし、本音で、率直に、愛らしく、切なく、堰をきったように語られていく言葉の洪水に浸って、ページを閉じると、不思議と心が高揚してくる。良い本を読んだという確かな手応えを感じる。
「誰もが言葉を発することができるSNSが普及し、『共感』という言葉が持て囃されて久しい。共感マーケティングが大切ですよ、だなんて声も多い。けれどもそこで必要とされるのは、溶け合うような心の共鳴ではなくテクニック。大多数が「こうであって欲しい」と願う願望の中心点を見定めてから矢を放ち、SNS上での「私も!」「私も!」という共感の声を一箇所に集めてうねりをつくる……ということは、技術的にできてしまう。白状するならば、私もそういうことをやってきたのだ。」
大学時代に「美大生・クリエイターのための」と謳ったフリーマガジンを創刊し、1万部を発行する離れ業を成功させる。会社員になってからも就職先のITベンチャー企業で、数多くのキャンペーンを手がけた。
どうすれば、クライアントの期待にこたえられるのか。
寝食を忘れてマーケットリサーチに没頭し、心を壊すまで働きながら、大きな反響を生み出すための勝ち筋がどこにあるのかを見極めて、「正解」を次から次へと射抜いていく。しかし、若くして手にした成功から彼女が出した答えは、より多くの「いいね」を獲得するのでもなく、「速さ」でも「強さ」でもなく、競争社会から降りることだった。
「爆速で画一化されていく巨大プラットフォームと張り合うことや、そこに順応していくことが、私のやるべきことなのだろうか。それよりも必要なのは、濁流の中でこぼれ落ちてしまう心をちゃんと慈しむことではないのか。プラットフォーム大戦争に小さなヨットで挑むよりも、ゆっくり歩み、いまここにある美しさを見つめ直していくことこそ、私がこれからやるべきことなのだろう。」
日々流動し続ける言葉にならない「うねり」をつくってきたマーケティングの専門家が、「正解」の先に見出した答えは、暗がりの中、自分の道を一歩ずつ確かめながら歩くということだった。
俗にデビュー作には、作家のすべてがつまっているという。
私も作家のデビュー作から追いかけ、読み続けていると、その作家の最も好きな作品に、デビュー作をあげることが多い。なぜだろう。その理由の一つは、作家がその作品を書くために、誰からも依頼されずに、自分の心の中に流れる言葉に耳を澄まし、書き綴っていることが多いからだ。この本にしか書かれていない「今」が、はっきりと記されている。
作家のデビュー作には、作家自身の過ごしてきた濃密な世界観が、人生が、そのまま注ぎ込まれている。だから、作家のデビュー作の多くは、その時代、その時にならなければうまれえぬ輝きを放っている。だから、読み終わった時、これは私のために書かれた本だ、という確かな手応えを感じることができる。
この本には、同時代に生きながら競争社会で戦わないで生きるための地図が描かれている。
著者はいう。
「世界のどこに行ったって、自分のために用意された理想郷は存在しない。だったら自分でやるしかない。内側の声に、そして地域の声に耳を傾け、自らの手で小さな理想郷をこしらえていく。」
目の前に壁がある。その壁があまりにも大きくて、手に負えないとき、深呼吸をしてこの本を読んでほしい。この本を読めば、頼りになる友人がきっと目の前にいる。そして、読み終わった時、そっと背中を押して、あなたが自分で歩こうと思った道をいく勇気を与えてくれるはずだ。
『ここじゃない世界に行きたかった』文芸春秋
塩谷舞/著