ブラックホールを直接観測せよ! 前代未聞の「EHTプロジェクト」に立ちはだかった「ノーベル賞問題」とは?

長江貴士 元書店員

『アインシュタインの影 ブラックホール撮影成功までの記録』三省堂
セス・フレッチャー/著 沢田博・渡部潤一/翻訳

 

 

まず先に書いておきたいことは、本書は「科学そのもの」の話というよりは、「科学プロジェクト」の話だということだ。だから、主役は、理論でも実験でもなく、人間である。「ブラックホールを直接観測する」という「EHTプロジェクト」を主導したシェップという人物を中心に、このプロジェクトがどのように生まれ、どのような紆余曲折を経て、それまで間接的にしか観測されていなかった「ブラックホール」を捉えることが出来たのかが描かれていく。

 

さて、そもそもだが、ブラックホールというのは「光さえも吸い込んでしまう天体」だ。だから、目には見えないはずだ。それなのに「直接観測する」というのはどういうことか、と思う人もいるだろう。実は、ブラックホールそのものは真っ黒で見えないのだが、ブラックホールの周囲は光り輝いているのだ。ブラックホールというのは、周囲にあるもの(星でもなんでも)を吸い込んでしまうのだが、それらはすぐに吸い込まれるわけではない。しばらくブラックホールの周囲を滞留する。すると、滞留しているもの同士がぶつかって摩擦熱が発生する。その摩擦熱で、ブラックホールの周囲は光り輝くのだ。

 

だから、もしブラックホールを直接観測することが出来れば、「光輝く部分の中に、黒い穴が見える」と予測されてきた。実際に、理論上どう見えるはずかという計算結果も存在する。しかしそれらはあくまで仮説に過ぎない。ブラックホールの直接観測は、その予測を裏付ける検証という意味もある。

 

また、より重要な問題もあった。ブラックホールというのは「特異点」と「事象の地平面」という2つの要素で構成される、と考えられている。「特異点」というのはブラックホールの中心のことで、「事象の地平面」は光が脱出出来なくなる限界地点のことだ。理論上、星が重力崩壊した場合には必ず「特異点」が出来るということは分かっている。しかし、「事象の地平面」が生成されるかは不明なままだ。もし「事象の地平面」が存在しないとなれば、「特異点」は何にも覆い隠されていないことになる(これを「裸の特異点」と呼ぶ)。そして、「裸の特異点」など存在しないという「宇宙検閲官仮説」と呼ばれるものがあり、今回の直接観測はこの検証でもあるのだ。物理学的には、「裸の特異点」が存在すると結構困るらしく、「宇宙検閲官仮説」は「裸の特異点なんてなければいいなぁ」という科学者の願望のようなものなのだが、実際にどうなっているのかは観測してみなければ分からない。

 

他にも、ブラックホールの直接観測によって様々なことが明らかになると考えられており、この「EHTプロジェクト」には大いに期待されていた。

 

しかしこのプロジェクト、なかなか難産であった。その理由の一つは、ブラックホールを観測するための望遠鏡そのものにある。

 

「EHT」というのは、「イベント・ホライゾン・テレスコープ」の略であり、日本語では「事象の地平望遠鏡」という意味である。これでもよく分からないが、端的に言えば「地球規模の望遠鏡」ということである。本書では「人類史上最大の望遠鏡」と表現されている。

 

しかし、「地球規模の望遠鏡」なんて、実際に作ることは出来ない。しかし、それぐらい大きな望遠鏡でないと、ブラックホールを直接観測することはできない。そこで使われたのが「VLBI(超長基線電波干渉計)」という仕組みである。これは簡単に言えば、「地球上にある複数の電波望遠鏡を同時に稼働させることで地球規模の望遠鏡を作ろう」というものだ。

 

しかし、単純に想像しても、相当困難だと分かるだろう。そもそも、観測に使う電波望遠鏡が存在するすべての地域の空が、観測当日晴れていなければならない(雨はもちろん、曇りでもアウトだ)。この条件だけでも相当厳しい。しかも、観測に使う電波望遠鏡は、建造にメチャクチャお金が掛かるために、一国とか一研究所の所有でないことの方が多い。複数の国がお金を出し合って作られている。だから、「今日ちょうど、全部の地点の空が晴れてるから使わせて」なんてことは許されない。あらかじめ実験計画を提出し、世界中の様々な研究機関とスケジュールの調整があり、ようやく指定された日付に使うことが出来るのだ。使えるその日の天気が悪くても、やり直しは容易ではないのだ。

 

さらに厳しい条件もあった。ALMAという、チリの高地にある世界最大の電波望遠鏡がある。もちろんこの電波望遠鏡も計画に組み込まれている。今回の「EHTプロジェクト」では、「水素メーザー原子時計」という非常に精密な時計を電波望遠鏡に接続する必要がある。世界中の電波望遠鏡を同期させなければならないのだから、正確無比な時計は必須だ。しかしこの原子時計、軍事目的にも転用出来るので、政府の許可なしには国外には持ち出せない。そういう許可を取得したりする手間は、当然EHTプロジェクト側が行う。しかしALMAは、そうやってEHT側の努力によって設置した原子時計であっても、EHT側が優先的に使えるわけではない、と通告してきた。設備増強した分はオープンソースのような扱いとなり、たとえその手間や費用をEHT側が負担したのだとしても、最も良い計画を他のグループが申請したらそちらを優先する、と言うのだ。これにシェップは最後まで納得しなかったが、ALMA側の結論が変わることはなかった。

 

さらにこの「EHTプロジェクト」には、非常に人間的な問題も絡み、プロジェクトの進行に支障を来たすことになる。それが「ノーベル賞問題」だ。

 

ブラックホールの直接観測は、実現すれば間違いなくノーベル賞を受賞すると考えられていた。しかし、ノーベル賞には厳格なルールがあり、同時に3人までしか受賞できない。最近の科学研究は、世界各国から何百人もの研究者が結集して行われる。その中から、最大で3人しか選ばれないのだ。誰が受賞するかは、ノーベル賞の選考委員のさじ加減次第だ。過去にはこんなこともあった。パルサーという天体の発見に対してノーベル賞が与えられたが、受賞したのは実際に観測をした人(女子学生だった)ではなく、観測には直接関係していない担当教授だったのだ(女性だったから受賞できなかったのではないか、と噂されている。当時科学界は猛反発したそうだ)。プロジェクトを主導したシェップは、自分が率いてきたこのプロジェクトで、自分がちゃんとノーベル賞を受賞できるかという点に疑心暗鬼になっていたのだ。

 

というのも、当初はシェップが引っ張ってきたメンバーだけでプロジェクトを進めていたのだが、資金難もあり別グループと合流せざるを得なくなってしまうのだ。そうなると、大学教授ではなく観測所の一介の研究員に過ぎなかったシェップの存在感はたちどころに弱くなってしまう(とシェップは考えた)。後からプロジェクトに関わろうとする人間を、「手柄を横取りするつもりではないか」と疑い、プロジェクトの進行の妨げになることもあったそうだ。

 

僕らは、科学研究の最後の結果だけしか知らないことも多いが、そこに行き着くまでには様々なドラマが存在する。そうした、人間臭さが多分に盛り込まれたプロジェクトの紆余曲折が楽しめる一冊だ。

 

『アインシュタインの影 ブラックホール撮影成功までの記録』三省堂
セス・フレッチャー/著 沢田博・渡部潤一/翻訳

この記事を書いた人

長江貴士

-nagae-takashi-

元書店員

1983年静岡県生まれ。大学中退後、10年近く神奈川の書店でフリーターとして過ごし、2015年さわや書店入社。2016年、文庫本(清水潔『殺人犯はそこにいる』)の表紙をオリジナルのカバーで覆って販売した「文庫X」を企画。2017年、初の著書『書店員X「常識」に殺されない生き方』を出版。2019年、さわや書店を退社。現在、出版取次勤務。 「本がすき。」のサイトで、「非属の才能」の全文無料公開に関わらせていただきました。

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