akane
2019/05/03
akane
2019/05/03
(前編はこちら)
一例を挙げよう。クイーンの歌詞には、固有名詞の使用がとても少ない。だから自然に実録性・個別性および文学性が希薄となる。たとえばビートルズなら「エリナー・リグビー」や「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」といった、そこに固有名詞があるからこそドライヴする名曲が、多数ある。クイーンには、それがほとんどない。よって70年代前半のロックに流行中だった要素のうち、クイーンには「ない」ものが多い。
まず、シンガー・ソングライター・ブームにも通じるような、明瞭な私小説性が歌に「ない」。では逆にレッド・ツェッペリンのような茫洋とした神話的広がりがあるかというと、これも「ない」。大がかりなメタファーには大がかりな固有名詞が不可欠だからだ(アキレスとか)。ではクイーンはなにを歌っているのか、というと「個人の感情に寄り添った」歌が多い。感情の振幅、そのなかにあるドラマ性にとても強くこだわっていて、これを引き出した上で、抽象化されたストーリーのなかに配置するのが、得意技だ。そして、この「ドラマ」と「抽象化」と「ストーリー性」の各段階で、想像を絶する量の音楽的アイデアとテクニックが惜しみなく投入されるのが、クイーンのロックンロールなのだが……そもそも、こうした「作り」そのものが、ことのほか評論家泣かせだった。
たとえばジョン・レノンの諸作のようには「語りつくす」ことができない典型例こそが、クイーンだったからだ。「いい楽曲」「すさまじく高度な音楽性」、これらは聴けばだれでもわかる。しかしその先を、通常のロック評論の言語で分析しようとすればするほど、あらゆる方向で行き詰まってしまう「しかない」。つまり取りつく島がない。なぜならば、前述の固有名詞問題よろしく「通常のロック」の価値判断基準の「埒外」ばかりで組み上げられたものこそが、クイーンの音楽だったからだ。
では「通常のロック」じゃない彼らの音楽とは、一体全体なんなのか? ひとつの模範解答は「映画の挿入歌」だ。彼ら一流のドラマ性、ド派手なケレン味は、うまくフィットすると、映画的快感を一気にはね上げる。この成功例が『フラッシュ・ゴードン』(80年)のサントラだった。あれほどまでに「場をすべてさらってしまう」テーマ曲など、世にいくつもあるものではない。映画の出来をすべて忘れてしまうほどまでに、印象強かった。以降、映画で使用されたクイーンの楽曲のほとんどは、ここぞという局面で劇場内に響きわたり、ストーリーの奥にある情感を高らかに称揚し、拡張することになる。
おわかりだろうか? つまり、クイーンのこの強み、成功方程式のすべてが叩き込まれたのが、映画『ボヘミアン・ラプソディ』だったというわけだ。映画の出来は、たしかに凡庸だ。クイーンの歩みが、どこのバンドにも当てはまるような小話へと矮小化されているどころか、バンド史の改変がとても雑だ。ラミ・マレックは僕も好きな俳優だが、でも、似てないじゃないか……と、言いたいことはいくらでもある。
だがしかし「そんなことは、どうでもいい」と感じさせられるのだ。スクリーンの両脇から、クイーン・ナンバーが鳴り始めた途端に。そして見終わったあと、とにかくむさぼり食らうように「フレディ・マーキュリーのいるクイーンの映像」を観たくなる。曲を聴きたくなる。そう、要するに「クイーンのレガシーを再活性化させる」プロジェクトとして考えた場合、これ以上ない成果を叩き出したのがあの映画だったわけだ。そしてこれは、間違いなく、ブライアン・メイの「計算どおり」だったのだと僕は考える。
クイーンには、彼らの楽曲だけを使用したミュージカルのヒットもあった(02年初演の『ウィ・ウィル・ロック・ユー』)。だから、成功するべくして成功したのが『ボヘミアン・ラプソディ』だったと言える。そしてクイーンの「強み」とは、ディズニー・アニメ最強のミュージカル映画にも匹敵することをも、証明してしまったわけだ。たとえばもし将来、ディズニーランドの一画に「クイーンのオペラ座」なんてアトラクションが出来たとしたら……それなりにはまってしまうんだろうなあ、と思えるのは、僕だけではないはずだ(本当に出来たりして)。
という具合に、まさに「ロックの特異点」にあったバンドが、クイーンだった。「通常のロック」の批評体系のなかにおさまるかどうか、なんてことはまったく関係ない。成層圏でスーパーヒーローとスーパーヴィランが高速で戦っている様子を、遠く離れた地上から裸眼で見ても、なにがなにやらわかるわけはない。しかしそんな「とてつもない場所」において初めて本領を発揮できるバンドこそがクイーンなのだ、ということをあらためて教えてくれたのが、『ボヘミアン・ラプソディ』だった。
そして、クイーンの音楽は、歌は、当たり前だが伝染する。歌いたくなる。しかも、ところ構わずに……この感じを最初に見事に映像化したのが、映画『ウェインズ・ワールド』(92年)だった。クルマに乗った仲間たちみんなで「ボヘミアン・ラプソディ」を歌い、そしてサビでヘッドバンギング!――というのは真似するとちょっと危ないのだが、しかしついやってしまった人は、少なくないはずだ。
そう。クイーンの歌を口ずさめば、僕らの眼前のこのつまらない現実世界も、一瞬にしてミュージカルの晴れ舞台となり得る、のだから。言い換えると、我々みんなの人生を夢のように華やかに、ドラマチックに彩ってくれる挿入歌として、クイーンの音楽はまず存在するのだ。作者側の私小説性の開陳が主ではない。「聴き手のこちら側」が口ずさむ瞬間のなかにこそ、クイーンが創造した偉大なる「ストーリー」は、あらかじめ解き放たれている。そのことを、僕がすれ違った中学生も完全に理解していたはずだ。
そしてこんな特殊構造をそなえたクイーンも、あくまでもロックなのだ。当ランキングからは落ちたものの、彼らのような特異点がロックの範疇内にあったことは、まさに僥倖と言うほかない出来事だったに違いない、と僕は考えている。
(次回は第5位。いよいよベスト5発表!)
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